明日も生きたい日記

うつ病と適応障害を患ったアヤセが明日生きたいと願うブログ

病気のこと1

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    私はうつ病だ。

 うつ病だと思っている。医師が書いた診断書上は適応障害なのだが、それだけだと体や心に現れる症状の説明がつかない。

 しかし、病名なんてものは治療の上では特に意味は無い、と心理士が言っていた。病名に対してではなく、症状に対して適切な治療を施していくのだそうだ。

 

 私は新卒で銀行に入った。メガバンクとかそんな大した銀行ではない。でも、当時はそれなりに誇っていた。

 2年目に営業デビューを果たし、法人のお客様に事業資金を融資することになった。最初は課長と同行して、営業のイロハを教わった。決算書の読み方から、稟議書の書き方、スケジュールの立て方まで。その課長は本当に優秀な方で、その時教わった仕事のやり方は今でも役に立ってる。パソコンのキーボードを叩く音が大きいことまで吸収してしまった。

 営業だからもちろんノルマがある。毎月2億貸せ、とか。その課長の本当にすごいところは、ノルマを消化できそうな企業を見つけ出すことだ。「アヤセさん、ここの会社は融資提案したら乗りそうだから、ちょっと行ってみて」実際に行くと、すんなり融資が決まってしまったりする。今でもそのからくりがわからない。そこが優秀な営業マンの勘なのか、経験のなせる業なのか、努力のたまものなのか、謎だ。私にはそれが備わっていなかった。なので、課長の操縦から放たれて独り立ちをすると途端にノルマを埋めることができなくなっていた。

 ノルマを埋めるためにはお金を貸せばよいのである。実際、お金を貸して欲しいと言ってくる社長さんは居た。しかし、お金が欲しい会社は業績が良くないことが大半なので、やんわりとお断りをする。「この商品が10,000個売れる契約を取ってきたから、仕入れ資金の融資して欲しい。そうすれば会社も持ち直すから」みたいな話があった。私は融資を実行したかった。私はそういう人のために銀行員として仕事がしたかった。しかし、審査上、お金が返ってこない確率が高いと判断されるため、融資は実行されなかった。

 融資を実行する会社=審査上問題無い会社=現預金が十分にある会社=お金を必要としていない会社、なのである。お金の必要ない会社に、融資を受けてほしいと頭を下げてお願いする。

 私はまだ青かったら、葛藤に苦しんだ。

 その葛藤を持ちながら営業をしていたら、毎月毎月ノルマ未達が積みあがっていく。当時の部長は「営業は足で稼ぐんだ!全員外に行って契約とってくるまで帰ってくるな」というイケイケゴーゴーな方だったので、私は事務仕事が残っていながら外に出た。しかし、何の準備もしていないのに契約なんてとってこれるはずもなく、無意味な毎日が過ぎていく。せめて決算書くらい読み込ませて欲しかった。私以外もそんな感じだっかから、月末になると溜まった事務仕事と未達のノルマでフロアに怒号が響くことが常となっていた。

 ある日、気分転換でたばこを吸いに行った。確か3本くらいだろうか。ヤニクラを起こした。トイレに行って吐いた。

 次の日、何もしてないのにデスクで吐き気をもよおし、トイレで吐いた。そこで座りこんでしまった。立てなくなってしまった。3時間くらいトイレにこもっていた。

 翌日もトイレに行って吐いて、より長い時間こもっていた。これでは体がもたないと自販機でポカリを飲むのだが、すぐ吐き気が来てトイレに行って吐いていた。なんとかカロリーメイトはゆっく少しずつならば食べられた。

 ここからは記憶曖昧なのだが、立て続けに大きなミスを起こして、店舗内からも、お客様からもお叱りを受けてしまう。

 吐き気だから、内科に行って胃腸薬をもらって飲んだが一向に良くならない。今思えば当たり前だが。そう、あとめまいの症状もあったので耳鼻科に行った。休養が必要とのことで、メニエール病の診断書を持たされた。そこには1週間程度の自宅療養をするべきだ、ということが書かれていた。

 1週間の休養から復帰してもすぐに吐き気が出てしまう。そのころから希死念慮が出てき始めた。吐き気は会社だけでなく、通勤電車でも、そしてついに自宅でも出るようになった。会社に遅刻したり、休みがちになる。この時はじめて心療内科の受診を上司に勧められる。

 心療内科にかかることは正直嫌だった。だって、自分が心の弱い人間だと認めることになるではないか、と当時は思っていた。このころまでの私は典型的な「うつ病は甘え」と考える側の人間だったので、まさか自分がそうなるなんて、と思っていた。

 心療内科にかかると身体表現性障害と診断され、紆余曲折あって3か月間休職るすこととなった。

 当時は一人暮らしをしていたが、実家に帰った。とにかく眠った。風呂、食事、意外は眠っていた。起きているときは希死念慮と戦っていた。脳の中の自分が「もう君に先は無いよ。マイナス一直線だ。でも死んだらゼロだよ。楽になれるよ」と語りかけてくる。それをとにかく色々な手段で振り払っていた。

 3か月療養すると、吐き気はもう無くなっていた。やはり銀行にはそういう病気になる人がたくさんいるらしく、復職プログラムなるものがあった。1日3時間から、簡単な事務仕事だけで、徐々に伸ばしていく。それに参加した。

 一日の労働時間が8時間に達して数日後、また吐き気が表れた。医師の勧めで再度の3か月療養に入る。この3か月は実家に帰らず、一人で過ごした。毎日夜眠れず昼夜逆転の生活を送った。当時5階に住んでいたのだが、夜眠れずにたばこを吸いにベランダに出ると、また脳内で「今飛び降りたら楽になるよ」とささやきが聞こえてくる。ベランダの柵から体を乗り出して下を見てみる。今死んだら見つかるのは朝なのかな?誰が見つけてくれるのだろう?体はきれいな状態でお葬式を迎えられるのだろうか?きれいな状態だったら両親も少しはマシに思ってくれかもしれない。そんなことを考えてふと我に返る、死ぬのは絶対にいけないと。ベランダで夜煙草を吸うと危ないということがわかったので、キッチンの椅子を置いてたばこを吸うことにした。とにかく布団にもぐって耐えた。

 その後事務職として復職するが、やはり心と体が不安定で、退職することになる。

 

 この経験から、人の大声、クレーム、交渉が、できなくなってしまった。

 

 東京実家暮らし編はまた書くことにする。

 辛気臭い話を読んでくださってありがとうございます。