明日も生きたい日記

うつ病と適応障害を患ったアヤセが明日生きたいと願うブログ

年収じゃんけん

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同居人が帰宅するまで少し時間があるので、ブログを書こうと思う。

 

先日、同窓会に行ってきた。成人式以来会っていなかったので10年ぶりくらいだった。

同窓会、行くまではとても面倒というか、体調が悪い気がするくらい億劫だった。しかし行ってみると意外と楽しいものであった。3次会のカラオケまで行ってしまった。終電近くまで遊んだのはいつぶりだろう。

同じうつ病の人は理解してくれる方が多いと思う、同窓会に行きづらいということを。

 

 

私は新卒で銀行員だった。東日本大震災が起こった2011年、面接日程が吹き飛んだりした就職活動で第一志望とは言えないが銀行の総合職の内定を獲得することに成功した。これが私の認知を歪ませた。「国立大学を卒業して採用が絞られる中銀行に就職することができた!私は優秀だ!」というどうしようもない自意識が生まれた。

銀行に入って1年目は社会人ごっこのようなもので、研修に参加していろいろな知識をつけながら先輩の仕事を手伝う、ただそれだけであった。誰にでもできるように設計されている社会人1年目の業務は「私は優秀だ!」という自意識をさらに肥大化させた。

それはもう「20代後半で課長代理で年収800万円そして結婚、33歳で課長昇進!年収1,000万円!」とか頭の中がお花畑であった。

2年目が始まって3か月後、営業の仕事が自分は壊滅的にできないことに気づいた。どのお客さんのところに行ってよいか、お客さんの目の前でどんなことを話せばよいか、まったく分からなかった。次第にクレームが増え、期日を過ぎた仕事が溜まり、私は心を病んで休職し、紆余曲折あって逃げるように銀行を去った。

周りの動機が卒なく業務をまわしノルマをこなしているという事実が、「私は優秀だ!」という思い上がりを何より砕いた。

しかし、「私は優秀ではない」と思えるようになるまで結構な時間がかかった。それまでは「私は優秀なはずだ、やればできるはずだ」と考えていて、一方で現実では何もできないのだから、そのギャップに苦しんでいた。

 

話を同窓会に戻したいと思う。

銀行員だったため、多少なりとも決算書は読めるし、話の内容や容姿などからその人のだいたいの年収を予測することができた。

色々な人から「東京に戻ってきたなら飲もうよ」と声をかけてもらえた。当時の私はそれを断ることは、うつ病から逃げることだと考えていたので、頻繁に人と会っていた。会うとまず何を考えるか。相手の年収だった。すごくキモイ。でも考えてしまっていた。自分の年収とバトルさせて勝った負けたで一喜一憂していた。年収じゃんけんをしていた。

私は本当に友達に恵まれ、彼ら彼女らはとても気さくで優しくて優秀だったから、勤めている場所は上場企業や公官庁などであった。

だからほとんどの年収じゃんけんは負けていた。悔しくて悔しくて、自分のことが許せなくて、吐くまでたばこを吸ったりしていた。

 

先日の同窓会では年収じゃんけんをしなかった。しなかったというよりは、終わったあと「今日年収じゃんけんしなかったな」とふと気づいた。

今は、今日も会社に行けたぞ、作った料理をおいしいとほめてくれたぞ、良い音楽に出会えたぞ、おもしろいことをつぶやく人を見つけたぞ、そんな些細なできごとに幸せを感じることができるようになった。

家族や医師、心理士、恋人、友人、私の味方は少ないけれども、私をなんとかここまで引っ張り上げてくれた人がいる。

 

もう年収じゃんけんなんて下衆な遊びをするような人間には戻りたくない。