明日も生きたい日記

うつ病と適応障害を患ったアヤセが明日生きたいと願うブログ

贖罪としての家事

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我が家では平日の料理担当は私だ。洗濯は恋人がしてくれている。

こういう分担になった理由は2つある。ひとつは、私の方が家に帰るのが早いからだ。残業することは月末でない限りほぼない。先に家に帰ったのに恋人が料理を作ってくれるのを待っているのは、とても、なんというか、合理的な時間の使い方ではないし、心情的にもアンバランスだと思う。

もうひとつの理由は、私が洗濯をしたくないからだ。干してある洗濯物を取り込んで畳むのは好きだ。ごちゃごちゃしたものがキレイに整えられるのはとてもスッキリする。しかし、洗濯物を洗濯して干す工程は楽しくない。すぐに結果や成果が出ないからだ。だから私は恋人との同棲を始めた時、いち早くキッチン周辺を占拠した。その時点で家事の分担の話はキッチリしていなかったので、早い者勝ちだった。これでもし洗濯物が溜まっていても、料理してるでしょ?と言い訳ができる。なんとも意地汚い。

実際に料理を始めてみると、色々と良い発見があった。まず、料理をすること自体が楽しかった。何と表現して良いか難しいところだが、ナマモノでプラモデルを作るような、理科の実験をするような、そんな創作的な楽しさがあった。材料と道具と時間を全て頭の中でイメージして、それからバババーっと作業をして、成果物が出来上がる。頭の中の説明書通りにできると、達成感と心地よい疲労感に酔いしれることができる。

次に、料理をすると頭のオンオフの切り替スイッチが押されることだ。私は仕事とプライベートを切り分けるのが苦手で、仕事中嫌なことがあったら家の中にまで持ち込んで夜寝るまでそれが頭にこびりついてしまうことが多々ある。精神を病んでしまったのも、その切り替えが苦手なことに由来するところが大きいだろう。しかし、スーパーで買い物をして家に帰ってきて料理をすると、仕事中の人間ではなく、家でゆっくりくつろぐ人間になれるのだ。家の中にタスクがあるから、家の人間になることができる。これは精神的に効用の大きな大発見だった。

しかし、最近あまり良くない、もっと言うと危ない発見もしてしまった。私はここ1週間抑うつの波に飲み込まれて会社を休んだ。睡眠も不安定だし、気分も塞ぎがちだった。それでも、夕飯は作り続けた。1日だけ冷蔵庫の中身が空なのに全くベッドから出られない日があって、料理継続の危機に陥った日があった。なんとか料理を作らなければいけない、料理を作らないなんてことはあってはいけない、そう思ってベッドで絶叫してスーパーへ向かった。料理を作ってすぐベッドに倒れ込んだ。これは、料理の位置付けが、会社には行けなかった贖罪となっている可能性、恋人が遅くまで仕事をしているのに自分は一日中家で寝続けていることの贖罪として料理をしているのではないか、という発見だ。発見というか気づきか。

これはたぶん危ない思考で、もし仮に料理すらできない状況に陥ってしまったら、私は贖罪の機会を失ってしまう。それは恋人にも自分にも申し訳なくて申し訳なくて堪らなくなってしまうだろう。更にメンタルを悪化させてしまうはずだ。

だから、料理と贖罪を切り離す必要がある。

そして、休んでも贖罪などしなくて良いという思考回路を作る必要がある。体調が悪いから休んでるのであって、休むためには「何もしない」をすることが必要なのだ。この「何もしない」をすることはとても難しい。どうしても申し訳なさとか惨めさとかが出てきてしまう。でも、休むのだからやはり「何もしない」をしなくてはならない。もし少し元気がでたら、できることをすれば良い。休むことに対して贖罪をする必要はない。

そうでないと、本当にピンチの時、自分で自分の首を締めることになってしまう。

今気づけて良かった。危ないところだった。セーフセーフ。