明日も生きたい日記

うつ病と適応障害を患ったアヤセが明日生きたいと願うブログ

病気のこと2

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 新卒うつ病罹患編は下記をご覧下さい。

ayase1988.hatenadiary.com

 

 新卒で就職した会社を辞めて実家のある東京に帰ってきた。ちょうど5年前の今日だと思う。8月の灼熱の日だった。体も心もぼろ雑巾のようだった。

 とりあえず、住民票を移したり、免許証の住所を変更したり、ハローワークへ失業保険の受給申請に行ったり、役所周りを数日間かけて行った。

 それが一通り済んで、これから先の人生をどうしようかと考えた。私はまだこの時、自分がうつ病だということが受け居られずにいた。すぐに社会に復帰して、またみんなが乗っているレールに復帰するんだ、そう考えていた。

 しかし、自分は営業に向いていないことは銀行で痛いほど分かったし、ノルマなんてもってのほかだし、しかし文系だから、転職サイトで調べてみると営業以外の職種の募集は皆無に等しかった。ハードワークも難しい体になってしまったので、残業の無い仕事を探す。しかし、どうせやるなら誰かのためになる、人の役に立てる仕事がしたかった。

 そこで思いついたのが、公務員だった。ノルマが無く、定時で帰れる(と当時は思い込んでいた)、人の役に立つ仕事、公務員しかないと思い込んでいた。銀行時代の先輩たちの中で公務員に転職する人たちが少なくなかったことも、公務員を選んだ理由のひとつになった。相変わらず心身ともに体調はおかしかったけれど、早くレールに戻らなければという焦りから、4つほどの公務員受験予備校を見て回り、3日後くらいに新宿の大手予備校に入学金を振り込んだ。今考えれば、明らかに視野狭窄に陥っていた。

 しばらくして、自宅に山のような教材とカリキュラムが届く。この時点で試験までは約半年。頑張れば十分に間に合う。スタートダッシュが肝心だ、そう思い込んで、教材を担いでほぼ毎日新宿に通った。確か一コマ90分の講義。すべて消化するには1日4講義は受講しないといけなかった。講義を受けたあとは自習室にこもって復習。もともと受験勉強は得意な方だったので、進め方に戸惑いはなかった。公務員になって、私は幸せな人生を歩んでいるんだ!と、今思えば誰に向かって言いたかったの分からないが、見返してやることを夢想していた。

 しかし、焦りとは対照的に日々悪くなる体調。体は重怠く、頭はぼんやりとしている。新宿に行けない日が少しづつ増えていく。講義が受けられないのならせめて自習を、そう思って家でテキストを開いた。しかし、翌日には勉強したことを覚えていない。恐らくこの時、脳の機能はほとんど日常生活を送るだけで精一杯だったのだと思う。勉強が進まない、しかし、試験日はどんどん近づいて来る。心が限界だった。

 公務員試験を諦めた。今の自分は受験勉強に耐えられる体と脳ではない。これで銀行に続いて2度目の敗北喫したと悔しくて泣いた。

 病院で新しい薬が処方された。最初2週間は副作用が出るけどその後体調はきっと良くなりますから、そう言われた。当時のお薬手帳を失くしてしまったので何の薬だったか分からないのだが、とにかく副作用は辛かった。重力が2倍になったんじゃないかと思うほど体は重いし、意識はもうろうとして、常に吐き気が伴った。ベッドから出ることができなかった。確かに2週間過ぎた頃から副作用が無くなり、気持ちが落ち着いてきた。辛くもないけど、楽しいや嬉しいといった感情もない。凪のような状態。

 その後は、毎日寝続けた。ベッドから起きて少し体調が良ければ、散歩をした。近所の人に無職だとバレたくなかったから、散歩は極力夜中だった。自分の体がボロボロだと公務員の受験勉強で痛感したので、とにかく回復に努めた。筋肉質だった体つきはいつしか骸骨のようになっていた。

 年が明けて2月に入ったころ、なんとなく充電されたような気がして、失業保険の給付も終わりに近づいてきたので、本格的に仕事を探すようになった。数社に履歴書を送ったり、面接をしたりした。これが面白いように通ってしまう。元銀行員という肩書、空白期間があるのにすごい威力だなと、世間が人をどうやって見るのか分かった気がした。その中から、何をやっているのか分からなけど何となく面白そうな中小企業に転職した。

 私は新規事業部に配属された。一発で身元を特定されてしまうので詳細な事業内容はかけないが、とりあえず毎月大赤字垂れ流しのこの新規プロジェクトを軌道に乗せてくれと言われた。毎日エクセルとパワーポイントを大量生産し、打ち合わせを繰り返し、エンジニアと一緒にリリース作業やデバック作業なんかも行った。残業も少なくなかったが、この時は楽しくて楽しくてしょうがなかった。

 なぜ、楽しかったのか、周りの人間に恵まれていたり、やること全てが新しくて新鮮だったりということもあるけれど、一番は薬のせいだと思う。転職活動前から、私はサインバルタという抗うつ薬を服用していた。専門的な知識はないが、テンションを無理やりハイに持ち上げる薬というのが私の今の認識だ。今の主治医から言わせればサインバルタはハッピードラッグだそうだ。

 そうやって無理やり気分を上げて仕事をしまくっていれば、うつ病から復職したての人間の体力ではそう長くは続かない。動けない日が出てきて、最初は午前休、次は当日欠勤が増えていき、それが2日、3日と長くなっていった。ついに会社に全然行けなくなった時、上司が連絡をしてきた。この時、つい自分がうつ病であることを口走ってしまった。うつ病だと周りから思われて仕事はできない。こうして私は会社を去った。

 それからまた3か月の療養生活。今度は零細企業の事務職になった。この会社の偉い人にはうつ病であることは伝えていた。他の一般の社員の人たちには伏せてもらった。仕事内容も色々と配慮してもらった。新卒で入った銀行に比べたらもう本当に小さな小さな会社だが、社内に病気の理解者がいるのはとてもありがたいことだ。

  そのころ、プライベートでも変化があった。地元の社会人サークルに通うようになった。大学時代までやっていた競技スポーツを再開した。体力づくりが目的だったが、競技なので勝つために色々考える。一生懸命プレーする。アドレナリンがどばどば出てくる。体が戦闘モードになる。生きている心地がした。しかし、家に帰って食事をとって風呂に入り、ベッドに横になっても戦闘モードがオフにならない。このころから不眠に悩まされるようになる。

 半年ほどたった頃だろうか。サークルに年が近くてプレーがとても上手な人が入ってきた。私はその人に勝てなかった。勝ちたかったから、一から競技の研究をして個人トレーニングもした。しかし、勝てなかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。そして、そのうまい人が私のことを特に気にしていないことも気にいらなかった。私がその人の眼中なかったことが、とても惨めに感じた。

 秋ごろ、まだ夏の暑さが残る日、その日もその人に勝てなかった。そして眠れなかった。自分が競技で負け続ける姿が、自分の人生と重なっているように思えた。テンションが逆側にハイになっていた。どんどん転がり落ちていく人生、惨めで仕方がなかった。そうだ、このまま落ちていく一方なら、今日でこの辛い人生を終わらせよう。もう今以上に惨めな自分の姿を、私は見たくない。思い立ったらすんなりと行動に移せた。遺書を書いた。涙がボロボロ落ちてきたが、すらすらと両親への感謝の言葉が溢れてきた。そして実行した。

 自分の名前を母が呼ぶ声がする。気づくとフローリングの床に倒れていた。数時間気絶していたようだった。まだ外は暗かった。その日は家族そろって朝を迎えた。9時になって心療内科に行った。精神病院に入院することになった。

 半月くらいだと思う、精神病院の閉鎖病棟で過ごした。ここでに生活は今思い返せば色々と世間とはかけ離れていて面白いと思えるのでだが、当時はしんどかったし、今は書かないでおこうと思う。

 退院して、今私を見てくれている心理士を紹介される。この紹介が大きなターニングポイントになった。

 

 この続きは、、、書くのかな、、、?